昭和54年01月27日朝の御理解
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
十里のおかげを頂こうと思えばやはり、あとはもう半道であってもその半道を大事にせなければ到達いたしません。皆、私共が少年時代にあんな標語が出ましたね。「一銭を笑う者は一銭に泣く」というような。今頃は一円というところでしょうね。一円を笑う者は一円に泣く。例えばそこに、一億円という目指しがあってもね、その一円がどこに探しても、求めてもないならば、もう一億円を一円切ることになるのですからね。確かにね、その一銭を笑う者。
一円を笑う者はまた、一円に泣かなければならない。私は今日は、本当に私共が例えば、十里の坂と、こうおっしゃっておられるがね、これからここまではどうでも、おかげを受けなければならないと決めたら、それが百であるならば、今九十九であってもね、もう一つここに足さなければ、もう一つそこを踏んばらなければね、百にはならない。いつまでたっても、九十九である。ね。九十九という事は、いつも苦から苦。いわゆる、苦労に苦労を重ねておるという。
その苦労に苦労を重ねておる時こそが、だから一番大事にしなきゃならない。その苦労を修行として有難く頂くと言う事。そんな事は大変難しかろうごとあるけれども、私共がいわゆる真の信心。その事をもって信心を頂こうとする心が、真の信心の入り口だと、昨日一昨日でしたかね、頂きました様にその信心を頂こう、百のおかげを頂こうじゃなくてね、信心を頂こうという気になると、その一つを疎かに出来んのです。
昨日、一昨日でしたか、私は朝のここ退らせて頂く時に、お礼申さして致しておりましたら、私の心に退る時に、一寸心にかかることがあったんです。或る方のお取次ぎさして頂いた。それでま、私すぐ退って、私、立礼して退がるんですけれども、立礼さして頂きおったら、頂いたのがこうやって『×』の字を頂くんです。いわゆるペケと言いますよね。×の字。あら、私が今お取次ぎさして頂いたその事は駄目。そういう心がけじゃ駄目と、こういう事を思ったんです。
そしたら、この×の字をこうやって、マイナスという字になるでしょうが。例えばなら九十九登っとっても、その事マイナスになったら九十八になるわけです。ね。これではいつまでたっても百にはならない。で又それは一瞬の間でしたけれども、と思うてお願いさせて頂きよりましたら、今度はマイナスになっておったのが、こう迴したら真直いプラスになった。ね。こうであれば×ペケの字。だからそういう心がけではせっかくの信心が、また一引く事になるじゃないかとこうなる。
そこでもうちょっと心を使わせて頂いたら、それがこうやってプラスという字になる。私はね、心がけがなからなければ、いうなら百なら百。ね。一億なら一億。ね。十なら十里。という、ここまではおかげを頂かなければ、というところに到達出来ないと思います。だから信心は、そこを大事にしなければいけないね。十里の坂を九里半登った。その後の半道を、大事にしなければいけないという事でございます。
これは三、四日前でした。桜井先生が今、あの桜井先生の奥さんの弟さんが、時々朝参りをして見えるんですけれども、参って見えとるかも知れません。なかなか、姉さん達夫婦がお道の教師にまでなられる位ですから、御両親は御信心があったんだそうですけども、なかなかお参りが出来ない。ところが最近は、その朝参りでもさせて頂こうかという気になって、信心が此頃ありがたいという事が少しわかってきたというようなふうに言っておられたが。
兄さん、私は合楽に初めておかげを頂いた時には、親先生からこげなもんば頂いとると言うて見せられた。私も覚えないです。こんなものを差し上げたか、そのまたこの内容も、ほうこれは素晴らしい事だなと改めて。私が恐らく何かこんな事を頂いて、書いておる時に参って見えた。先生が丁度書き終った時にこれを、これは今神様から頂いて書いたのですが、あなたに差上げましょうと言うて、あげとったらしいんです。
わぁそげな、それはどういうことじゃろうかと言うたら、翌日コピ-をしてからこうやって何枚か持って来て下さった。それにはね、こういう事が書いてあるのです。「一切を尊ぶ心は一切をなつかしむ心である。一切をなつかしむ心が一切を拝む 一切を合掌する心で一切を浄 化し まことの改革もなされねばならん。生神金光大神天地金乃神 御神願御成就御願い申し上げます。」
とある。ね。ですから私共がね、その一切を只拝むという事なんですけれども、それはね、いわゆる、ま、拝むという事は、いろいろに言われます。けれどもね、その私共がね、その心の中にこうなつかしむ心です。ね。慕わしいというか、なつかしむというかね。そのなつかしむ心が拝む心だと。だからこういうところを、も、合掌することが、もうこよない喜びとか、有難いとか、も、これは言葉では言えないけれども、と思わず合掌しておる自分の姿にいうならば、ほろりするような心。
そういう心をいわゆる、いとおしむというか、なつかしむというか、又はそれを、神様をなつかしむというか、教会をなつかしむというか、親先生をなつかしむというか。そういういうならば心。一切をなつかしむ心である。一切を尊ぶ一切をなつかしむ心が一切を拝む心という事になる。只拝みすりゃえっ合掌すりゃえっ。そういう拝み方だったら必ず忘れたりね。心の中にいつも忘れない。いわば、なつかしむ心というものがあれば、ね。これならば、一銭を笑う事もなかろう。ね。
あと半道だからと言うてね、たかをくくると言った様な、お粗末も御無礼もないだろうと私は思います。これは私は日々、それを実感するのですけども、本当に神様の御守護の中にいつもがあるんだなという事です。昨日はここで筑水の先生方が、今ここでは二十一の教会がありますかね。それが昨日は、二名だけ見えておりませんでしたから、十九か二十かの県の教会の先生方が、皆集まってくれまして、ここで午前中いろんなお話し合いがございました。
そして午後から新年宴会。それをここが当番でございましたから、まぁ別に、ま心づくしでと言うでしょうか、ま私の思いというものが、ま、いうならば端々(はしばし)まで行き届いておったと言う様な感じでした。もう一人一人の先生方が、もう大変喜ばれてね、帰られました。夜須の先生じゃないですけれども、私と勝彦とが一番下座に座っとりまして、まいうなら私が相伴どもして迴らなんですけれども。
大和総代と日田支部長綾部さんとが、お相伴に来て下さっとったから、もう本当に行き届いたサ-ビスが出来たわけですけれども。お話し合いが済んで、共励殿でしたから一応そこを立ってもらわなきゃ、お膳部の配膳の具合がありますから、一応立って頂いて、客殿と応接間に用意しておりましたから、丁度山本さんが参って見えて、そんなら先生方にお茶を差上げねばならん。
ならと言うので幹三郎と久富繁雄さんと山本さんと三人が受け持って、もう色々にお茶を、まおいしいお茶を差上げた訳ですけども。最後にはお薄を差し上げて訳です。私はこちらの準備が済んだから、もう大体済んだから客間の方へやらせて頂いたら、丁度先生方にお茶を出しておった所だった。なら私も一服頂こうかと言うて頂いて終った時に、あの準備が出来たからどうぞと。もうたったそれだけの事ですけれども、一事が万事その通りなんです。けそけそする事もいらん、走りまわる事もいらない。
あれだけの事をさして頂くのに、もうそれこそ切って継いだように、きちっとしたお働きの中に、昨日はそういう会合。又は新年宴会があった訳です。そういう信心がです、ね。私は日々いうなら私も生身をもっておりますから、ペケと言われる様な事があります。けれども、ほっとそれに気付いた時には、それをマイナスにせずに、必ず一寸心を使うんです。それは私の心の中に、いつもいとおしむというかね、なつかしむ心というものが絶えずあるから、それが自然に骨折らずにさっさと、こう出来ていくんです。
昨日一昨日でしたかね、文男先生が来る時ですから、一昨日だったですか。昨日も続けて土居の共励会でしたから、終ってから私の足もみに来られて、初めてあんな事を聞きましたけど。僕はどうも此頃、お商売がしたくなくなった。何でもやる気がない。ね。お食事をさせて頂こうと思うても食欲がない。という事を足をもみながら言うんです。私は黙って聞いておった。聞いておったけども、これは大変私の心にかかる事ですから、やっぱり祈り願わして、勿論頂いてました。
ま昨日まで、まだそれが続いておるかどうかわかりませんでしたけれども、人間にはそういう時があるんです。どういう充実した信心をしておる時でも、何かそらぞらしい、何とはなしに、なら心が向かない。それとは反対にもうとにかく、盛々とした心が有難いものが湧いてきて商売にも、とにかく迫力が出るし。ね。信心にも、御祈念にも身が入るという事もあるけれども、それと反対の時があるんです。
ですからこの人は、こういうところを、一丁大事にして早く取りもどしとかなきゃいけないなあという、私が言うのはそういう事なんです、×の字と言うのは。そういう時は、何をしてもいけんです。だからまず、心の方を取り直さしてもらう。いうならば、それをマイナスにせずに毎日毎日をそういう行き方でおったら、毎日毎日をマイナスにしているようなものですから、それをちょっとプラスにすると、ね。まいうならそれは、いろいろあります。一寸自分の心を神様へ向ける。
自分の修行精神を一寸神様へ向ける。フシギな事です。ね。もうそれは×の字を、こうすることですからね。でマイナス。それを一寸こうするだけでプラスになる。ね。ということなんです。だからそういう信心をです、これはもう本当に、ま例えて申しますならね、例えばいつも、二杯なら二杯頂いておるのをです、今日は神様に一杯お供えをさせて頂こうと思うて、一寸なら一杯にしてね腹八分にして、たったそれだけでもプラスになるです。皆さんあのね信心がデリケ-トだと言われますね。微妙だと。
もう、おかげを頂く心と頂けない心とは紙一重です。慢心と安心とが紙一重と言われるように。も、紙一重です。その紙一重の心を私共が絶えず、おかげを頂く心の状態に直しとかなきゃいけん。生身ですから、×の字の神様からおしかりを頂いたような、神様からそっぽを向かれてるような感じがする時がありますけれども、そこを大切にする。その大切にする事が、これは各自各自の信心である。
そういう時にです、私共がね、いつも一切を尊ぶ心、一切をなつかしむ心であると言われる。ね。なつかしむ心というようなものが、出来ておらなければならぬ。それは、なら、どういう事かというと、おかげに終始するのじゃない。信心に終始するという信心になっとかなきゃならん。ね。その事を通して信心になろう。いくらお願いしたっちゃおかげにならんという、そのおかげが目的ではなくて、信心が目指しなんだ。
おかげを頂く事がありがたい。なら、ね、信心を頂く事もまた、有難くなからねばいけないという事です。ね。信心をする事が有難いというなら、分らして頂く時には、もうすでに真の信心の入り口に立った。と言われるのですから。ね。その事を通して、一つ信心をね、一さしてもらう。そこはいろいろに工夫です。それが日頃こうやって、教えを頂いておると様々な工夫が出来るんです。ね。
そして神様の一分一厘まちがいのないお働きの中に、おかげをこうむっていく事が出け、こういう行き方を身につけたところにです、例えば十里の坂を九里半登って、やれやれ安心と言う様な心はおこって来ん。むしろそこの後の半道こそ、なつかしむ心で一切を合掌する。尊ぶ心で頂き抜きますから。ね。いうなら一円を笑う事もなからなければ、半道をおろそかにする事もない。そして初めて、なら一億なら一億達成という事になり、十なら十里登りきったという事になるのですよね。
どうぞ。